#1 「生活費を稼ぐために娘を置いて仕事に出かけた」

※このブログでは特定の結論は示しません。予めご了承ください。

 

生後3か月の女児がマンション内に16時間放置され,搬送先の病院で7月23日に死亡した事件があった。子供の状態に気づき,病院に通報したのは,帰宅した母親。報道では,警察が保護責任者遺棄容疑で母親を逮捕し,25日に送検されたとされている。

 

注目したい点は,逮捕された母親が「生活費を稼ぐために娘を置いて仕事に出かけた」と供述していることだ。刑事事件としては,これが真意なのかどうか,他に意図はなかったのかについて調べられるのだろう。ここでは,母親の供述が真意ではない可能性は捨象しよう。

 

考えたいことはこうだ。保護責任者遺棄罪を免れる理由として「生活費を稼ぐために娘を置いて仕事に出かけた」ことを挙げてもだろうか。

 

この話を進めるにあたって,さらに2点,議題の捨象をしておきたい。

捨象する1つ目は,16時間放置したという時間が「遺棄」というのに十分ではない,または,母親は「遺棄」に当たるとは考えていなかった,という可能性だ。これを含めた議論の場合,最初に「遺棄」とは何を指すのかを議論する必要が出る。これ自体興味深い議論ではあるが,本稿で目的とする内容ではない。

捨象するもう1つの事柄は,母親が働くことを迫られるほど貧しくなかった可能性だ。生活費を稼ぐことが生活にとって逼迫してないとすると,考慮するべき事情が変わってくる。本稿で議論したい点は,働いても働かなくとも命にかかわる場合だ。したがって,生活費を稼ぐことが生命を保つ必要性に直結しない可能性は捨象して考える。

 

さて,前提の整理が終わったところで,本題に移る。

生活費を稼がなければならない,それも,稼がなければ自身も子供も生活ができない場合に,乳幼児を家に置いて仕事に出かけることが罪とされるだろうか。

 

そもそも,何故,乳幼児を家に置いて仕事に出かけることが,罪となるのだろうか。

保護責任者遺棄罪とはどのような罪かについて,簡単に説明しよう。

刑法218条は「老年者,幼年者,身体障害者又は病者を保護する責任のあるものgこれらの者を遺棄し,又はその生存に必要な保護をしなかったときは,三月以上五年以下の懲役に処する」と定めている。

この規定によって守られているのは,「老年者,幼年者,身体身体障害者,病者の生命・身体の安全」と考えられている。

つまり,今回の母親は,幼年者に当たる娘(乳幼児)を家に置いて出かけることで,娘の生命と身体の安全を脅かした,と言われているのである。

これ自体は至極ごもっともだ。乳幼児は自分の周囲の環境の調整はできない。温度の環境,空腹,排泄排便,一人ではどうにもならない生活上の危険は多大にある。世話をする大人がいない状態で,長時間過ごすことは身体にも生命にも危険が伴うものだろう。

 

では何故,今回の母親について,罪とするべきかどうか悩むのだろうか。

それは生活費を稼がなければ,ゆくゆくは,飲み食いができず,居住空間を保持できず,身体と生命に危険を晒すことになることが目に見えているからだ。この母親の行動は命を守るための行動である。

 

天秤の一方には,遺棄を処罰することで子供の命を守るという錘が乗っている。これに対して,他方には,生活費を稼ぐことで命を守るという錘が乗っている。

天秤がどちらに傾くのか,簡単には想像できなくなる。

 

さて,どのような考え方ができるだろうか。

SNSのコメントで見られたものとして次の内容があった。

 

・「経済苦であることが原因だから,母親を責めるべきではない」

 経済苦であることがなぜ母親を責めない理由となるのだろうか。考えられる理由としては,二つある。

 一つは,母親ではどうしようもない事象だから,責任を取らせることはできないというものだ。母親にはコントロールできない社会的な情勢が,乳幼児の放置を促したというものである。

 この見解に対する疑問としては,本当に母親に他の選択をとることはできなかったのだろうか,ということが挙げられる。これは,環境が人間をどれほど制約するのか,通常の生活において,どれほど選択肢の自由が与えられていると考えられるのか,という問題である。

 確かに,人のとる行動は環境に制御されている,という見解は成り立つ。しかし,この見解は,貧しい人だけではなく,ありとあらゆる人が,生育環境,交友関係などの環境で行動が制御されているという結論に結び付く。つまり,今回の母親だけではなく,どんな罪を犯した人もある程度環境に影響された行動をとっているという考え方になるのである。つまり,あらゆる罪に対して,同じ考え方ができてしまう。もし,今回の母親だけが罪に問われない理由があるとするのであれば,その理由を探さなくてはならない。

 この理由については,無数に考えられる。「貧困だから環境を理由にできる」「世間の風潮として,頼りがたい風潮であるのであるから理由にできる」などである。なお,貧困を理由にする場合には,特に注意が必要である。例えば「貧困の場合は罪に問われない」という理由を置いてしまうと.、多くの窃盗犯がおそらく罪に問われないこととなる。それで納得できるのかどうかは吟味が必要となる。

 さて,経済苦を根拠に罪を問わないもう一つの理由は,「経済苦は政府の政治が原因で生じていることであるから,政府が責任を取るべきである」と考えるものである。現実的には政府が罪を負う手段はないであろうから,母親を無罪として終わることになろう。もしくは,政府が母親に対して賠償金を払うということも想定できるが.、この見解の論者は母親に経済的利益を与えることまで意図したものではないと思われる。

 この見解に対しては,問題となる行動の原因が政治にあると言えるか否か,ボーダーラインが非常に不明確となるという批判が成り立つ。市民の行動のうち,政府が決定している部分と自己決定している部分が明確であれば,この判断はしやすいが、そうはなっていない。むしろ,政府の建前としては,多くの場合市民には自己決定権が与えられているはずである。この自己決定権を覆す事情として何が挙げられるのか,考えておかなくてはならない。

 また政治として,生活保護制度や補助金の制度があることも,この見解の批判としてあり得よう。政府の責任と短絡的に割り切ることは,案外と難しいものである。

 

 

・「母親には生活費を稼ぐ以外に選択肢はあったから,罪を免れる理由にならない」

 これは経済苦の考え方と真逆であり,まさに母親の自己責任を問う見解である。この見解については,実際母親にどの程度選択肢があったのかを考えなくてはならない。

 まず,親戚や友人を頼るという方法が挙げられる。確かに,これが一番考えやすい方法であり,誰しも取りやすい方法であろう。ただし,可能性として,頼れる人がいない場合もあり得る。もちろん,親は誰しも必ずいる。また多くの人は,学校にも通っているであろうから,友人も(関係性の深さは別として),存在するであろう。ただ,両親については疎遠になっていたり,極端に言えば,亡くなっている可能性がある。友人についても同様であり,また学校に通っていないということもあり得る。そうすると,親戚や友人を頼るということができないこともあり得るのである。

 次に,生活保護.,児童手当の受給を受けて生活するということが挙げられる。これは最も現実的かつ確実な選択肢である。母親を責める内容として一番的確な内容はこれではなかろうか。ただ,この選択肢についても,非常にレアケースではあるが,急に貧困に陥る出費・損害があった,政府の手続きに何かしらの不備があったなど,選択肢として挙げられなかった理由も考えられる

 最後に,最も中核的な選択肢は,子供を産まない選択肢である。これについても,選択できなかった可能性がある。しかし,この選択肢について,より注意を置くべきは,子供を産む選択の中に,産むべきではない状況をどれほど想定するべきかである。子供の生活を維持できない状況であれば,子供を産むことは無責任な行いであるとの非難は考えられる。しかし,例えば「養育費として一定上の金額を確保できなければ子供を産むべきではない」という政府の政策が出たとする。これに対しては,ある程度の人は反対するのではないだろうか。普段深く考えられてはいないが,子供を産むことを制限するというのは,反発心を抱かせるものである。この点をどう整理するのか,検討は必要である。

 以上の見方からすると,すくなくとも生活保護補助金を受ける選択肢は,よほどのレアケースでない限り,あり得るということになる。この見解においては,生活保護を受けることができないよほどの事情が証明できた場合にだけ,生活費を稼ぐことが罪を免れる理由となるかどうか検討すべきという話になろう。

 

・上記には対立する極論を挙げたが,「親だけを責めるべきではない」といった中間的な意見もある。

 

大雑把にまとめてしまうと,対立しているのは「市民の行動に対する環境の支配」と「行動選択の自由」である。前者について貧困という想像しやすい環境が設定されていることで,より親近感を感じやすく,重みを帯びた事例となっている。

これらに加えて,子供を産む自由の制限を許容できるかどうか,貧困への政府の責任の重さが絡み合っている。

 

実際問題としては,立証の問題,法解釈の問題も入り込むことになる。上記の検討は実際の事件とは切り離して,お読みいただければと思う。